伍章 外国でも七転八倒

金持ちタイ人とマツザカビーフ

タイ人の知人でスゴい金持ちがいる。鉄鋼会社をいくつも経営し、車を四台も持ち、運転手までいる。ウチには毎日メイドが掃除にやって来て、週末は家族揃って高級料理店で外食。海辺に別荘を持っており、なんだかんだと言っては家族でバカンスに出掛ける。タイでバブルがはじけた時、彼のビジネスも大打撃を受けたらしいが、それ以前には、タイ北方のチェンマイにも、お洒落な山小屋風の別荘を持っていたという。大打撃のあおりで泣く泣く手放したそうだが、それでも海辺の別荘が一つは残っているのが素晴らしい。そして趣味でマジックショップを経営している。本人はあくまでも「趣味」と言うからには、そのショップに純粋な利益があるのかどうか、甚だ疑問であるが。

彼のご兄弟もやはり金持ち。不動産の一大プロジェクトを手がけており、建売住宅の街を丸ごと作っている最中だった。

タイではものスゴい金持ちは昔からものスゴい金持ちで、貧乏人は変わらず貧乏なのだという。双方ともそれでなんとなく幸せにやっており、努力して上を目指そうと思ったり、急転直下で転がり落ちる、なんてことは余りないそうだ。もっとも、タイでバブルがはじけた時には、筆者の知人のように持ち直すことが出来ず、とことん堕ちて行った金持ちもいたそうだが。

さて、彼が奥さんと一緒に筆者の住む街へやって来た時のこと。

意外な話だが、タイでは牛肉が恐ろしく不味い。どういうワケか、恐ろしく不味い。お!美味そう!と思って選んだ炒め料理の牛肉がエラい筋ばっていて、とてもじゃないが噛み切れない代物だったことがある。タイの牛肉料理に比べたら、日本のその辺のスーパーで買ってくるいずれの牛肉も、夢心地のような美味さである。

さて、牛肉の不味い国、タイから来た知人夫妻の大好きな「日本料理」の一つは、庶民レベルを一気にすっ飛ばして「マツザカビーフ」。以前日本に来た時に誰かにご馳走され、以来すっかりお気に入りだという。しかし、松坂牛の一人前のコースを取ろうと思ったら、安くて三千円、上等なものなら一~二万は軽くいってしまう。て言うか、筆者は食べたことすらなかったぞ!

タイの物価は日本に比べると随分安い。円とバーツの間には、単純にレートで計算したよりも更に大きな較差が存在する。例えば、十バーツは日本円で約三十円だが、十バーツあればバスに二、三回乗れるし、道端の露店でちょっとしたおやつを買って小腹を満たすことが出来る。実際には日本で言うところの百円以上の価値があるのだ。そして、タイ人の一日の最低賃金は大体五百円くらい。三千円といえども、タイ人の一週間分の給料に当たるワケである。それを知人は惜しげもなくマツザカビーフに投入すると言うのである!彼がどれ程金持ちなのか、これでおわかり頂けるだろうか!

来日の前に、知人夫妻は筆者をマツザカビーフ・ディナーに招待すると言ってくれていた。なので、あらかじめ適当な店をピックアップしておいたのだが、我が地元へいらっしゃるのだし、昼御飯くらいはこちらでご馳走しようと思っていた。ところが、彼らはランチにはスシをご馳走するよ、と言い出した。筆者がヘンなものを食べさせるよりは、食べ慣れた?スシをご賞味頂いた方がよろしいと思い、彼らの滞在先のホテルのフロントに訊いて、近所の寿司屋を教えてもらった。勿論回らない所だ!

まずはご主人が特上セットを注文。奥さんは刺身の盛り合わせ。初っ端から飛ばし気味である。しかし、この程度なら筆者の財布でもなんとか賄える額である。初めの頃は「ここは私が」とでも言うつもりでいたのだが…
トロの好きな奥さん、更に大トロの刺身を何皿も追加。ご主人も好きなネタを選んでどんどん追加。コレは美味いよ、君もおあがりよ、と、筆者のために更に追加。もっと食べろよ、何が食いたい?どんどん注文しなさい、と、お二人の勢いはとどまるトコロを知らないかのよう。こういう店にはありがちだが、値段表が掲げられているワケでもない。もう幾らなのか皆目見当が付かない。これは――もはやアタシの手に負えるレベルではない。おとなしくご馳走になるしかあるまい…。

さて、彼らが夕飯には松坂牛を食べに行くつもりだという話が出ると、寿司屋のご主人が美味しい所があると紹介してくれた。前もって下調べはしてあったが、ご主人推薦の店の方が金持ちご夫婦に似つかわしく高級そうだったので、そちらへ行くことにする。

その前に、彼らの次の目的、ショッピングである。ガイジンのマジシャンがとりわけ喜んで行きたがる日本のお店は百円ショップと東急ハンズ。東急ハンズには、なんと二時間もいたよ!しかし、お二人はこれまた多量の商品を買い込んでくれたため、駐車券がばんばん発行され、駐車料金は全くかからなかったのである。

このように、行くとこ行くとこ金持ちぶりを発揮している知人夫妻であるが、彼らは意外と堅実で、必要なことには惜しみなくお金を使うものの、無駄な出費は省くように心がけているようだ。しこたま買い漁った品物をタイへ郵送するように頼まれたのだが、船便で、と指定。また、日本のとある本が入手したいと言うので、オンラインで注文してPさん宅へ送るように手配してあげたのだが、やはりこれも船便指定。ご主人の口からは「えくすぺんし~ぶ」という言葉もよく出てくる。

買い物の後は、いよいよ本日のメインイベント、マツザカビーフである。奥さんは焼肉が食べたかったのだが、行った店が高級過ぎた。焼肉用の部位としゃぶしゃぶ用の部位とを分けて提供しており、特別な部位を使用する焼肉は前もって予約がないと出すことが出来ないと言われた。仕方がないのでしゃぶしゃぶのコースを頼むことになった。コースのお値段は、下から五千円、一万円、一万二千円、一万五千円。何処がどう違うのやら。多分五千円のものでも筆者にとっては充分美味いと思うのだが、お二人には間違いなく美味しいものを食べて頂きたいので、お店の人にお伺いを立てた。すると一万円のものを薦められた。三人で三万円だ。タイ人の給料二ヶ月半分…眉一つ動かさず、おー!それにしよー、と朗らかにおっしゃるご夫妻、相当な金持ち感が漂ってくる…。

さて、こんな朗らか金持ちご夫妻であるが、金持ち的イヤらしさが全然ない。筆者が外国人だということもあるかもしれないが、人を上から見下ろすような胸くそ悪い話し方はしないし、裏表なく、至って気さくに接してくれる。とりわけ奥さんの心遣いが素晴らしい。アナタにお土産、と言って、彼女がタイから持ってきてくれたのは。一緒に食事したレストランで筆者が飲み、美味しいと言ったタイ風のお茶の素、タイ風焼きソバのレトルトパック。トムヤンクン用のスパイスセット。タイの英語版観光ガイド。なんつーか、筆者の好み、もろ把握されていらっしゃる。免税店で買えるような高級タイシルクや高級カシミアマフラーなんかをもらうより余程嬉しい。

後日、筆者の地元で行われたイベント会場で、またもやご夫妻と顔を合わせたが、その時はコンビニで買ってきたと思しき巨大なドラ焼きとウーロン茶を差し入れしてくれた。商売で忙しくて昼御飯まで手が回らなかったので、ホントに助かった。このご夫妻、タダのマツザカビーフ好き金持ちではなく、心配りの出来るステキな人々なのである。