弐章 マジックよりフシギ過ぎる我が生活
満足のいく生活とは?
とある「シゴト」からの帰宅早々。アパートの前で上品な感じのオバさんが二人、ウロウロしていた。アパートの見学に来た様子に見えなくもない。しかし筆者の住むアパートは単身世帯用。身なりのいいオバさんが住むような所ではない。初めは住人の身内か、はたまた子供のために物件の品定めに来た親御さんかとも思ったのだが、後者にしては新入居の時期を大いに外している。そういうワケだから、そのオバさんたちはイマイチ風景にしっくりきていなかった。
「大きな荷物で。ご旅行のお帰りですか?」
車で送ってくれた父が去って行った後、オバさんの一人がにこやかに話し掛けてきた。何かと思ったら、宗教の勧誘だった。
「ごめんなさい、宗教には興味ないので」と速攻その場を逃れようとすると、オバさん、更に食い下がる。
「でも、より満足のいく暮らしを...」
「充分満足してますから」という言葉でオバさんの言う先をばっさりと切り捨てて、ハタ迷惑な足止めの後に、ようやく久しぶりの我が家に足を踏み入れることが出来たのだった。
それにしても、大きなお世話だよなぁ...
ああいう布教活動をしている人って、本気でなんびともが信仰で幸せになれると信じているのだろうか。それで幸せになれる人はなっていればいいし、信じるのも勝手だが、「良いものだから他の人にもオススメしなきゃ」と言わんばかりにわざわざ他人の家の玄関まで押し寄せてくるバイタリティが、筆者にとってはかえって胡散臭く映る。
そんなことはともかく、咄嗟に出てきた「満足している」という言葉は、何もオバさんを追っ払うための詭弁だったのではない。筆者の住んでいるのは安普請の木造アパート、職業不定、収入不安定、ビミョーな年齢の独身女、両親も金持ちではない。だけどコレと言って自分の生活に不満はない。敢えて希望を述べれば、来るべき大地震に備えて耐震性のある住居に移りたい、ということくらいか。全てが上手くはいかなくても、やりたいことを叶えるために最大限の努力はしているし、それは別に苦しいことでもない。仕事はし過ぎず、マイペースで暮らしている。ここ何年も定職には付いていないが、それでいて不思議なことに貯金は減っていない。シゴト(赤字なので事実上仕事になっていないだが)にかこつけて海外や国内のあちこちへ出掛けられるし、実際この時は南国で三週間過ごしてきたばかり。普段の食生活は実に質素だが、どういうワケだか高級料理に舌鼓を打つ機会もある。これ以上何を望む?仮に望みがあったとしてもキリスト様を信じる事によってそれが叶えられるとも思えないが。
筆者より「恵まれた」生活をしている人は周りに多くいる。広くて綺麗な家に住んでいたり、好きな相手と結婚して子供が生まれていたり、インテリアやファッションにお金を費やしたり、運転手・メイド付きの家庭に暮らしていたり、得意分野の安定した職業についていたり、親が裕福だからのうのうとパラサイト・シングルに甘んじていたり、ご馳走を食べ歩いていたり、親の金で留学していたり。だけど、明らかに筆者より「恵まれた」生活をしている彼らを筆者が羨ましいと思うことは全くないのである。どういう訳か、むしろこういう立場の人たちから筆者のことを「羨ましい」と言われることがあるのだが。つい先日も、新婚で、海外に住み、自分のやりたい勉強をしている友人から「アナタが羨ましい」というメールをもらったばかり。その根拠は、
「アナタはやりたいことをやって、自由で、何処にでも行けるから」
でも、そのために払っている努力や、直面する葛藤があることを、アナタは知っていますか?私だって、何もかも思い通りに事を通しているワケではありません。自分が最優先したい事を選んで、それを実現するために別の事を切り捨ててきているんです。私がアナタと違うのは、その事で自分の状況を引け目に感じたり、自分を不幸だと思ったりせず、また、自分より「恵まれた」環境の人を羨ましいと思わずにいられるだけの自信と、それでいて傲慢にならないだけの謙虚さがあることです。
この人、良い生き方をしているな、と筆者が共感するのは、大体において上記のような目線で自分自身の人生を捕らえている人たちだ。他人を羨まず、自分のことを卑下せず、そして傲慢でもなく。
布教活動のオバさんの訪問を喰らった直近で会ったある人は、「自分が如何によく出来る人間か」ということを、ことあるごとに筆者に語ってきた。こちらから話題を振ったワケでもないのに、何故だかそれは二、三日の間に数度に渡って繰り返された。つい、一回だけ言ってしまうくらいなら良い。自己顕示欲なら誰にだってある。
多分、「本当によく出来る人」というのは、わざわざそのことを口に出したりはしないのではないか。何故なら、第一に、自ら吹聴せずとも周りの人がそれを認識しているハズだから。第二に、本人は本人で現在の自分に満足しておらず、更に上を目指しているハズだから。自慢話をして立ち止まっている場合ではないのだ。仮に満足いく段階に立ったとしても、自慢話やエラそな態度が他人にとって気分の良いことでないのがわかるくらいに「出来た人」ならそんなことはしないのは至極当然。
前述のある人とは二、三日一緒にいて、なんとなく「この人は良い生き方をしていないな」と感じた。その人の口から発せられるとげとげしい言葉、思い遣りがあるとは言えない他人への態度、そして自画自賛の御託。その人の体から発する居心地の良くないオーラを前に、筆者はその人から距離を置きたいと考えるようになっていた。